団地の中から

人間の“場所”について考えるブログです

ゆっくり時間が流れる街

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 なんとか金曜日を乗り越えた。毎週同じことを感じているんだけど、一週間の密度がすごく濃い。

24時間が5回あるんじゃなくて、120時間が1回あるような感じがする。今の僕にとっては、これを充実と呼ぶべきなのか、単なる忙殺と呼ぶべきなのか、よくわからない。

 仕事の帰りにサッポロビールを買って、妻と一緒に飲んだ。疲れたね、なんて言ってようやく一週間が終わった。

 

 

 

 土曜日は晴れていたので外へ走りに行った。青空と、雲と、少し秋めいた涼しい風が吹いている。視線を空へ向けた。いつのまにか首が凝ってるな、と初めて気づいた。

 

 普段通勤で行く方向とは逆の方向へ向けて走った。箕面の山のほうへ向かうことにした。

体を動かしていると、頭の中で乱雑に積み重ねた不安や心配が崩れていくような気がする。前より脚が重い。蹴り上げるように脚を動かしていくうちに、額や背中も汗ばんでいるのがわかった。

 目指すのは、とにかく住宅街がいい。そしてできれば静かであるともっといい。 

ずいぶん“社会”から離れたな、と街を見下ろせるようなところへ行きたかったのかもしれない。行き場所があったわけではなかったが、脚は自然に動いていた。

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 箕面の山の手からの眺望は「街を見下ろす」ような場所だった。

来たことのない場所だったけど、どこか安らぐような懐かしさを感じる。

 

 街を見下ろすような標高の高い街は、それだけで俗世から一歩引いたような場所だ。大阪市内の中心地まで、車なら30分くらいでつくような立地でも、時間の流れがゆっくりと流れている。

 箕面の街並みが僕に「時間がゆっくり流れる感覚」を感じさせてくれた。だから懐かしさを感じたんだと思う。だけど、この懐かしさは「古いもの」や「過去のもの」への懐かしさではない。

 

 毎日、遅くまで仕事をしていても、休日にだらだらとしていても、僕にとって時間は着実に進んでいて、死に向かって前進し続けている。むしろ前進し続けることしかできない。

 だから「時間が止まっている」ものへの憧憬みたいなものを抱いてしまうんだと思う。自分自身では時間に抗うことは当然できないから、ある時間の中で止まってしまったもの、というのに引き寄せられてしまう。

 

 走っていると、古い民家の玄関先に汚れたキャラクターものの自転車が立てかけられてあるのを見かけた。この自転車も、もう数十年前に役目を終えてから時間が止まったままなんだろう。懐かしさととともに、寂しさのようなものが胸を締めた。時間が止まるというのはすなわち死だ。

 

 

時間が止まっているようにゆったり流れているものは、おそらく死とは対極にいるんだろうな、と思う。そう思いながら、走った。さわやかな正午だった。