団地の中から

人間の“場所”について考えるブログです

平成までの自分と、平成以降の自分

 体の重心を少し後ろにすると、靴底のかかとがかなりすり減っていることがよくわかる。靴の修理に行かないと、と毎日電車の中でつり革を掴みながら思うのだけど、仕事はだいたい22時頃に終わるので修理に出せそうにない。

 

 電車の中では資格の勉強をするか、文庫本を読むか、あとはスマホツイッターを見てみたりLinkedinを眺めたりしている。そんなときにあるツイートを見つけた。

 このレビューが妙に頭に残った。

 ここ最近はいろんなところで次の年号の話題も時折出てきて、その度に何になるんでしょうねと雑談していたのだけど、 はっと平成が終わるということは、自分の生きた時代は過去のものになってしまうんだと思った。

 僕はリアルタイムで昭和の時代を生きたことはないけど、ノスタルジーな昭和の良さや夕陽が差し掛かるような雰囲気はなんだか理解できるし、確かにそれが懐かしいものなのだ、ということもわかる。両親が昭和を語るとき、決まって近所のお好み焼き屋のいか焼きが20円だったことを懐かしそうに話すし、祖父は終戦後に船乗りとして渡った瀬戸内の造船所の風景を話す。

 だけどそれが過去に実際にあったことだというのはよくわかるのだけど、それが自分の今現在と結びつけることが出来ずにいた。ポケモンの緑(ゲームボーイのやつ)を兄とかわりばんこで遊ぶことが小さい頃の僕の遊びだったし、外で遊ぶことがほとんどない子供だったから余計にそうだ。

 造船所で山積みになった船のガレキを前にして、僕ならなんと思うかも全く想像できないし、20円のいか焼きを買って食べながら、めんこ(父の育った大阪の南河内ではべったんと呼んだらしい)で友達と遊んだりする姿に自分を投影することが出来ない。

 でも、それは当たり前だとも悪いことではないとも思う。それが平成という時代に育てられてきただけだと思う。

 

 だけどもうすぐその平成が終わろうとしている。

もう平成生まれの人はこれ以上増えないし、あとは減っていくばかりだ。

 オトナ帝国の逆襲じゃないけど、僕はもう大人になってしまっていて、懐かしむ過去を持つようになったのかもしれない。そうして平成という時代が終わることで、今の大人の僕と小さい頃の僕が断絶してしまうような感じがする。

 

 どうにか過去というコンテクストを、未来へ組み込むことができないかと考えている。そしてその過去というのは、場所であったり空間で表されるものであったほうが、よりみんなにとって理解しやすいものなんではないかと思う。