団地の中から

人間の“場所”について考えるブログです

いちばん古い記憶

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 24時35分。
今僕は日本のどこかの団地にいる。トラックの音が近づいてきて、また遠ざかっていく。国道のそばの、大きな団地だ。

 

 部屋の電気を消し、カーテンの隙間から外を見ると、向かいの棟の階段の明かりが点滅しているのが見えた。
 特に何があるというわけではないけど、ときどきこうやって起きている家がないか確認することがある。静かに1日を閉じようとする人が、ほんの20メートル先にいるということを確かめて安心したいだけだ。もっと外を見たくて窓ガラスに頰をくっつけた。冷たかった。誰も手を浸していない夜の水面にうっかり触れて波をたててしまったような気がした。


 例えば電車にはいろいろな情報があって、週刊誌や、英会話、MBAスクールの広告が、別にそうしたいわけじゃないけど視界に入ってしまう。

 そういう情報を無意識に集めながら、電車の中ですら仕事のことを考えて、職場では仕事のことしか考えないようにしていると、あーなんかいかにも人間の脳みそっぽいことしてるなーと思うことがある。
 もっと、動物的な、直感的な、うまく説明の出来ない感情が僕たちにはあるはずだ。

 

 僕も含め、誰でもみな動物的な感覚を備えていると思う。
例えば駅を出たところのバスロータリーの明かりに心がほっとしたり、枯れ葉の入り込んだ蛍光灯に苦しさを感じ、高くそびえるタワーマンションを見上げたときの恐ろしさなど、どれも別に理由があるわけじゃないけど、なんとなく感じるものだ。このなんとなくさ、が動物的な、プリミティブなものだなと思う。

 

 こんな動物的な感覚は、他の人とも同じ感覚を抱くものもあれば、人によって違うものもある。これは動物的な感覚というのが、原風景体験に直結しているんじゃないかなと思う。

 

 原風景体験というのは、幼い頃に何を見て、どう感じたかという記憶の積み重ねそのものだ。

 例えば僕は、団地を見ると懐かしさと安らぎが湧き起ってくる。

 これは僕が団地で生まれ育ち、全ての出来事が団地の中の、その中の僕の中で消化されていったからだろう。そうやって僕の底のほうに溜まってきた淀みは、いつもは静かに沈んでいてほとんど意識することはない。

 ただ、時々ふとしたことでその淀みがかき混ぜられ、一見澄み切っていたように思えた感情が一瞬でモヤがかかったようになることがある。これはたぶんみんなそうだ。今まで経験のない人は、そのかき混ぜられる要因にまだ遭遇していないだけなんだと思う。

 原風景というのは、そうやって僕たちを無自覚のうちに作り上げていて、性格だとか、人格だとか、価値観だとかとにかく生きるうえでの指針の全ての根源になっているんだと思う。原風景が僕らを苦しめたりもするし、救ったりすることもある。