団地の中から

人間の“場所”について考えるブログです

狭い世界に生きる人(自分)

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 生まれも育ちも団地で、今は実家でない団地に住んでいる。

 電車に乗っていても、車窓から見える団地をつい目で追ってしまうし、仕事で外出の用事があってグーグルマップで行き先を調べていても、この辺りのこのへんに団地があるんだな、と無意識に考えている。

 最近はえーっと言われがちないろんな◯◯マニアも、ほとんど市民権を得てきているし、そういう人より変わった趣味嗜好というのは、結構良しとされることも多い。だけど「団地が好き」は思わず人に言うのをためらってしまう。というより、あまり人に言いたくないというような感じだ。

 たぶん、団地は僕の弱さを象徴する存在だからかなと思う。

 


 大抵の人は労働をしないと生きるためのお金がない。世間体というあいまいな何かにも、労働に向けて突き動かされている。僕もそれにもれず日々労働をしていて、体をいためながら、ねぎらいながら、どうにかこうにか生きている。

 

 僕はまだ20代だから「なし得たいこと」があって普通の年代だ。夢や、目標や、そういった美しいきらびやかなもの。だけど労働をしながら考えてみると、そんなのあるだろうか、私は何か成し遂げたいことがあるのか、という自分自身の問いかけに、言葉が詰まってしまう。

 一方で同年代には、世界で活躍する人もいる。既に海外で仕事をしたり、その視野が目線より高いほうを見上げている人がいて、そういう人たちはやっぱり華やかだ。インターネットで見るたびに、すごいなという心境になる。

 

 だけど僕の世界は、団地の2LDKで閉じている。

「団地が好き」というのは本当は正しくないのかもしれない。本当は、そんな狭いところを心の拠り所にしている自分が嫌で、でもそうでもありたい、背反する感覚がまぜこぜになっているのかもしれない。

 

 ただ、最近は素直に「団地が好き」と言えるようになってきていて、団地をテーマにしていろんなことを調べたり、地域や街や空間への人間の関わり方について本を読んだりするようにもなった。

 これは「他の人の世界観」に興味を持ったということもあるし、意外にこういう「空間と人の内面のギャップ」は他の人も苦しんでいるんじゃないかと思うようになったからだ。

 日本から人口が減っていく中で、広い世界へ視線を上げ続けることが出来る人だけが生き残れるというのは悲しいので、もっと狭い範囲の世界についてちゃんと言語化していきたいなと思う。