淀川
人に感情をぶつけるのも、ぶつけられたりがあって、今週は心身共に重たくなってしまった。金曜日は出社していたので、久しぶりに22時台の電車に乗った。人がみっちり座っていた。電車の中ってこんなに明るかったっけ。何を見るでもなくぼうっと立っていた。みな白いシャツや明るい色の服を着ていて、クーラーの効いた車内はいっそう青白く見えた。もう夏に一歩踏み込んでいるんだな。
換気のために開いた小窓から風が吹きこんできた。
マスクの隙間から少し水気を含んだ水草のような匂いがした。
電車は淀川を渡り始めていた。
夜の淀川は水面にいっさいの闇を溶かしたようにあやしく静かに揺れている。さっきまで、きらきらした梅田の明かりの中にいたのがもっと前の話だったんじゃないかとすら思えるくらい、自分があやふやになるくらいの夜が広がっていた。
目をつむると、私の体は川に浮かび、鉄橋をうるさく渡る電車を見上げているような気がした。
いくら足をゆらゆらさせても、一向に底の知れない川だということを感じるばかりで、恐ろしさばかりが膨れていく。
爪先からほんの30センチが川底かもしれないが、数メートル先が川底かもしれないという可能性もまた同時にある。じっとしていると次第に神経が水に慣れてくるのだけど、そのぶん手先にまとわりつくわずかな水流の歪みであっても恐ろしくなり、ただ水の中に一体となってたゆたうことしかできなくなっていく。浮かんでいるのか、どちらが天地かはわからない、ただ落ち着くべき体勢に落ち着いていき、流れる、あるいは沈んでいくようなイメージが広がっていく・・・
体の底がぶるっとなって目を開けるともうとっくに淀川は渡りきっていた。息を止めていたらしく、少しだけ息が上がっていた。